馬鹿ばやし
について

馬鹿ばやしとは

「馬鹿ばやし」は、面を付けた打ち手が、笛・小太鼓・鉦のお囃子に合わせて大太鼓をそれぞれの面の個性に合わせて打つものである。打ち終わると大太鼓の影に沈んで、次の面をかぶった者と交代する。「べしみ」「ひょっとこ」「でめきん」「かわず」など様々な面がある。
前半はヒューラ・ヒューラ・オッテンドンという緩やかな調子のお囃子が響き、後半はクライマックスに向けてトコトン・トコトン・トントントコトーンとアップテンポに変わっていく。演技はわずか2〜3分間と短いが、その可笑しさの中にも和やかな雰囲気が漂い、観る者にあたたかさと大らかさを感じさせる。
毎年5月24日に火産霊神社春季御例祭時に神楽殿で奉納され、5年あるいは10年に一度、山車を曳いて町内を盛大に練り歩く。これまでに数多くの催しに出演し、国内外で紹介されている。
昭和37年には福井県指定無形民族文化財に、昭和58年には「伸びゆく福井県民運動実践団体」に指定された。

由来・経緯・謂れ

馬鹿ばやしは松平忠直公が福井藩主だった江戸時代初期(1620年)ごろ、山車(やま)引き回しのとき、「かぶらや」と言う者が先導役の猿に扮装しておどけた所作をしたところ、いつも機嫌の悪い顔をしている忠直公の側室一国女が、その仕草を見て笑ったとのことで、一国女を笑わせた功により、「馬鹿ばやし」は城中への出入りを許されたと言われている。説によると、江戸時代初期にはすでに「馬鹿ばやし」は存在していたと考えらている。
また、「馬鹿ばやし」自体は、室町時代(1336年~1573年)に始まったとも言われており、福井藩の御用商人と言われる多田善四郎が面を秋葉神社に寄付し、同時に「馬鹿ばやし」の芸能を伝えたとの言い伝えがあります。
福井藩の火防の神の祈願所であった火産霊神社は、今日も福井を火事から守る神として信仰されている。

永く演じられてきた面12面

馬鹿ばやしの面には、大きく二つの特徴がある。一つは面の数の多さ、もう一つは面 の呼称が独特であることである。
かつて、面の数は80以上あったとされ、管理を氏子である各町内の持ち回りで行ったといわれている。そのうちに破損したり、失われたりして、現在の数になったと伝えられている。大正14年(1925)に面箪笥が寄進されており、その墨書銘から、当時の面の数が35面であったようだが、「外二虫食弐個」の貼紙があることから数自体は37面であった可能性もある。ただ、その虫食のある面は、現在1面しか伝わっていない。現在の37面になったのは、「大べしみ」の墨書銘から昭和3年(1928)以降であることがわかる。福井県内でこのように多くの面を所有しているところは少ない。 また、火産霊神社は福井市中心部にあり、戦災震災の被害も大きかったが、面は煉瓦造りの蔵に納められていたために難を逃れた。なお、この蔵は、福井市中心部にある建造物としては、戦災と震災を生き残った数少ないものでもある。
面の呼称は、主に二種類の方法で名付けられている。一つは見た目による名付けである。目がギョロっと飛び出ている風なので「でめきん」、目のあたりにヤニを塗られてい るので「やにめ」などである。もう一つは能や狂言の面に使われる呼称である。しかし、 能面としては「邯鄲男」や「中将」と呼ばれるものを「天神」と呼んでいるように、一般的な呼称とは異なるものもある。

引用『ふくいの面とまつり』 福井県立歴史博物館 川波 久志

きばり

おたふく

大べしみ

ひょっとこ

白おきな

できめん

赤ざる

白おうな

青坊主

いぬ

かわず

はんにゃ

火産霊神社について

火産霊神社(ほむすびじんじゃ)

祭神

火産霊大神

例祭

5月24日

文化財指定

福井県 馬鹿ばやし

特殊神事

馬鹿ばやし

由緒沿革

社伝によると、創祀は福井藩祖結城秀康が下総国結城(茨城県)に在城の砌(みぎり)、遠江国(静岡県周智郡)秋葉神社の分霊を城内に勧請(神仏の分霊を請(しょう)じ迎えること。)、慶長6年(1601)当国北庄(現福井)に移封せられるや居城の東南端今の地に移した。
以後防火神と崇められ、藩の祈願所と定められて、歴代城主の崇敬するところであった。
明治5年福蔵院秋葉神社を火産霊神社に改称。
昭和23年震災を受けたが昭和28年本殿、昭和38年拝殿、昭和51年10月神楽殿改築と順次復興、建築され現在に至る。
なお、当神社には県指定(昭和37年)の無形文化財「馬鹿ばやし」という芸能が伝承されている。この芸能は朝倉家家臣多田善四郎により伝えられたものである。

馬鹿ばやしの一日

火産霊神社の春祭りは5月23日から25日の3日間行われ、中日の24日が本祭である。過去の390年大祭(1992年)の記録によると、24日の御神輿渡御に続いて前ばやしを伴った山車が町内を巡行した。また、午後7時から神楽殿にて奉納した。
前ばやしは笛・三味線・小太鼓(児童が担当する)が小さな山車に乗り、賑やかしく次に続く山車の馬鹿ばやしを盛り上げるものである。
近年は、24日昼過ぎに馬鹿ばやし芸能部会員が集まり、神楽殿の舞台設営をする。午後7時から神楽殿にて、「報徳幼稚園」園児、次に旭公民館で「子ども馬鹿ばやし」として活動している自動、最後に「馬鹿ばやし保存会芸能部」により奉納される。

保存会芸能部による演技

5月24日

神輿の渡御

報徳幼稚園園児による馬鹿ばやし

子ども馬鹿ばやしに出演した児童

赤レンガ倉庫

名称 赤レンガ倉庫
種別 福井市指定有形文化財 建造物
員数 1棟
所在地 福井市手寄1丁目19番19号
所有者 宗教法人 火産霊(ほむすび)神社
施工 熊谷組
建立年代大正14年(1925年)8月

赤レンガ倉庫は四周にモルタル仕上げの犬走(いぬばしり)を廻した煉瓦造の小規模な建物である。外形は正方形平面で、四隅に柱型を持ったイギリス積みである。煉瓦は軒までを通常の焼成煉瓦、軒先瓦の下の軒を黒い焼過ぎ煉瓦とする。軒下の2段分の煉瓦は縦に積み、1枚おきに突出させて洋風意匠のデンティル(歯飾り)を設けている。
屋根は方形造桟瓦葺(ほうけいづくりさんがわらぶき)とし、軒に一文字瓦、隅鬼瓦を葺き、中心に単純な形の宝珠をおき、全体に簡素な形態である。
出入口の扉は、外側に両開きの鉄扉、内側に片引きの鉄板を張り木製板戸と木製格子戸を設置し、伝統的な土蔵造の開口部を踏襲する。
内部はセメントモルタル塗の平らな床、白漆喰塗とした平滑な壁と屋根形態に沿った四角錘形の天井の単純な空間を見せる。内側の壁・天井は鉄筋コンクリート造で、当時の最先端の構造で建設されている。
正面内壁上部には「奉納 大正捨四年八月 熊谷三太郎氏 發起人 井上口藏」の墨書銘があり、明治31年(1898)に熊谷組を創業した熊谷三太郎氏の施工と考えられる。
赤レンガ倉庫は、煉瓦作りの洋風意匠を持ちながら、伝統的な土蔵の考え方を受け継ぐとともに、当時の最新構造で建設された近代の建築史を伝える貴重な建物である。